1918年(
大正7年)(43歳)
[3]、
柴田宵曲を門弟とした。この年
ホトトギス社が始めた
宝井其角の五元集の輪講会の座長となり、
下谷区上根岸38(現・
台東区根岸)の自宅を主会場にした。柴田に筆記・編集させ、『其角研究』の名でホトトギスに連載した。1921年に終わった。
1924年(大正13年)(49歳)、子規の命日の毎月19日に『子規庵歌会』を催すことに定め、その記事を『日本及日本人』誌に載せた。
前々からの子規庵を保存し、子規の遺業を伝える案件が、1923年の
関東大震災後に具体化し、敷地買収や庵の修改築作業が、1926年に漸く終わり翌年落成した。その資金に『子規全集』15巻を
アルスから出版した。碧梧桐・虚子・
香取秀真が編集委員となっているが、実務は鼠骨と宵曲とによった。
1928年(
昭和3年)、子規庵の隣に移り住んだ。1929年、ここ5年間の子規庵歌会の歌を整理し、歌集『わか艸』を編んだ。
1945年(昭和20年)(70歳)、4月の空襲に自宅も子規庵も焼かれたが、鼠骨が提案し設計して建てた土蔵に保管した子規の遺品・稿本類は守られた。10月には歌会を再開した。罹災した政教社の今後を議する事もあった。1946年9月焼跡に仮宅が建つまで、斜め向かいの
書道博物館に仮寓して、毎暁土蔵を盗難から守った。
1947年、子規庵を再建する資金に、『子規選集 全6巻』を編み、その出版を1949年春に、再建を1950年に了えた。そこに住み、9月19日の子規の祥月命日の子規忌、その母・妹の回忌の法要を、続けた。参会者が減り間隔が開いたけれども、子規庵歌会を続けた。
生来虚弱で、直腸狭窄、腎盂炎、
蛋白尿、
神経痛を病んでいた。1951年から歩行困難となり、子規の行事には臥床のまま参加するようになった。
1954年(昭和29年)、9月の子規忌を気にしながら、8月18日、
肺炎のために没した。鼠骨庵法身無相居士。墓所は
葛飾区見性寺である。出典:ウィキペディア
広瀬氏は文人考古学者で石岡市にある白菊酒造の元社長をしており、寒川鼠骨が戦後子規庵を再建する時に経済的な援助をした人です。戦中は寒川鼠骨が高浜の広瀬宅に疎開していていました。
出品している作品は、その時に書いた書です。
多くの方にご覧になって戴き貴重な資料がご研究のお役に立てればそして、故郷に帰る事ができれば大変嬉しいです。
サイズは41.3×156㎝です。
写真にあるスケールは全長17㎝です。
状態は経年によるヤケがあります。
発送は紙管等に丸めてゆうパック60サイズを予定しています。
東北関東東海信越北陸地区の場合880円です。
折り畳んで良ければクリックポスト185円も予定します。