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ソフロニツキーの芸術(34CD)ソ連の録音に強いイギリスのスクリベンダム・レーベルから、ソ連ピアニスト・ボックス第5弾が登場(旧江戸とは言わないので旧ソ連ではなくソ連と表記することにします)。これまで、ユージナ、グリンベルク、タマルキナ、ニコラーエワと女性ピアニストが続いていましたが、今回は男性のソフロニツキーです。 ネイガウスが、「彼の演奏には何か普通ではない、ほとんど超自然的、神秘的で説明不能な、強く惹きつけられるものがある。」と称えたソフロニツキーの芸風はとても自由なものですが、ソフロニツキー自身が、「ピアニストという職業の中で価値があるのは、論争の的になる部分だけだ。」とも述べているので、普通のスタイルの演奏にはあまり興味が無かったものと思われます。 また、笑っている写真が少ないため、ちょっと気難しそうに見えるソフロニツキーですが、実際には、「回文」を考えて披露するのが大好きという愉快な人物でもあったようです。3度の結婚美男で早熟、ボヘミアン気質でもあったソフロニツキーは、ペトログラード音楽院在学中に2度結婚しています。最初はロシア内戦時代初期に制定された「家族法」施行直後のことで、17歳の時に32歳のピアニスト、タチアナ・ドストエフスカヤ(ドストエフスキーの実兄の孫娘)と交際、ソフロニツキーが18歳のときに彼女がイリーナ・ヴラジーミロヴナ・ソフロニツカヤを出産し、結婚していますがほどなく離婚。タチアナ・ドストエフスカヤはのちにモスクワ近郊のカルーガ音楽学校の学長を務めた人物で、カルーガ音楽学校に通っていた作曲家トゥリコフによれば、エネルギッシュな女性だったということです。「家族法」は、結婚・離婚の手続きを簡略化して、出生数を増やすのが目的の法律でしたが、結果的に社会の荒廃の一因となってしまったため、のちに廃止されています。 イリーナ誕生の翌年には、ソフロニツキーはスクリャービンの娘エレナ・スクリャービナと結婚。エレナはソフロニツキーを上回るボヘミアンぶりで、パリ長期滞在時の夫婦喧嘩の際にはソフロニツキーをソ連に帰国させ、エレナはその後数年間パリに留まるという自由さでした。ソフロニツキーとエレナの仲はそんな状況ではありましたが一男一女をもうけ、四半世紀に及ぶ結婚生活を維持して離婚。 エレナとの離婚要因は定かではありませんが、エレナと仲が良くかつてパリで長く一緒に過ごしていた妹(異母)のアリアドナが、1944年に殺害された衝撃は大きかったと思われます。アリアドナはレジスタンス活動の際に逮捕、連行途中にフランス民兵に機関銃で虐殺されています。 戦争が終わった翌年の1946年、ソフロニツキーは、20歳若い元教え子のヴァレンティナ・ドゥシノヴァと再婚、亡くなるまでの15年間を過ごし、亡くなる前年にはのちに有名な演奏家になる娘のヴィヴィアナが誕生。 ちなみに、ソフロニツキーの同級生だったマリヤ・ユージナが、1939年に死に別れた婚約者は、ユージナより15歳若い彼女の元教え子でした。ペトログラード音楽院でユージナと共に金メダル1921年5月、ソフロニツキー、ペトログラード音楽院を卒業。音楽院小ホールでの卒業演奏は満席。ソフロニツキーはリストのロ短調ソナタほかを弾き、マリヤ・ユージナと共に金メダルを獲得。新聞には、2人のピアニストの個性の違いについての大きな記事が掲載され、ソフロニツキーとユージナが、学生時代から注目を集めていたことが窺えます。 ソフロニツキーとユージナが同じクラスだったのは、ユージナが手の怪我の療養を終えて復学してからの1年ほどの期間で、ユージナの回想によれば、すでにソフロニツキーはクラスのスターであり、そのスクリャービン演奏とバッハの平均律はとても見事なものだったということです。 ちなみに2人には、副賞として、「シュレーダー」の白いグランド・ピアノが贈られることになっていましたPowered by HMV
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