鮮烈、強烈、圧倒的なパワームーティ率いるシカゴ響のおそるべき底力が発揮されたショスタコーヴィチの『バビ・ヤール』ムーティ率いるシカゴ交響楽団の最新盤は、独唱・合唱を伴う、長く重く陰鬱な問題作『バビ・ヤール』。2018年9月のライヴ録音です。強烈なパワーが炸裂する第1楽章から、ひりひりするような痛烈な演奏。管楽器の咆哮もシカゴ響の名手たちが爆発しています。歌唱陣もさすがムーティの導きのもと、非常に劇的かつ詩の内容をえぐるような表現が続きます。革命、戦争、安易な妥協の中に見出される理想主義、偏見や不寛容、といったショスタコーヴィチが抱えていたテーマが、生々しく、強烈に響き渡ります。 圧倒的な存在感を示しているバス歌手のアレクセイ・チホミロフはロシア出身。ロシアはもちろん、イタリア、ベルギー、オランダ、フランスや南米でも活躍の場を広げている今脂ののっている存在です。フェドセーエフ、プレトニョフらといった指揮者とも共演を重ねています。 圧倒的なパワーに満ちた演奏で、ムーティとシカゴ響のはかりしれないパワーをあらためて実感する内容となっております。(輸入元情報)【バビ・ヤール】ショスタコーヴィチの13番目の交響曲は、その歌詞内容を巡って初演当初から大きな反響をよんだ作品です。膨大な打楽器群を伴う大編成のオーケストラに男声合唱、バス独唱を要し、1時間にも及ぶこの問題作の焦点は、第1楽章のテキストであり、作品全体のタイトルともなっている詩「バビ・ヤール(バービイ・ヤール)」にあります。 エフゲニー・アレクサンドロヴィチ・エフトゥシェンコ[1933-]の手になる詩「バービイ・ヤール」は、1961年9月19日に「文学新聞」紙上で発表されました。当時28歳、新進気鋭の若手詩人によるこの詩は、第2次大戦中、ナチス・ドイツによってキエフ郊外のこの地でおこなわれた周辺ユダヤ人の大虐殺(2日間で33,771人)を直接のテーマとしながら、ロシアで帝政時代から根深く続いていた、そして当時のソヴィエトにあっては事実上蔓延していたとされる、反ユダヤ主義の告発を主眼とする、いわば、ソヴィエトの恥部を暴くような内容だったのでした。 このような詩が、公式筋からの猛烈な批判を浴びつつも熱狂的な支持を生んだ背景には当時のソヴィエト政府が「雪どけ」といわれる緩和政策のさなかにあったことが第1に挙げられます。スターリンの死後、「思想から経済へ」と踏み出し、西側諸国との平和共存をうたった共産党政権の転換は、ヴァン・クライバーンのチャイコフスキー・コンクール制覇や、オイストラフ、リヒテル、ギレリスらの渡米公演など、多くの文化的な功績も残しましたが、一方で、そうした自由な空気の流入は国内言論の緩和という形であらわれ、自由な論説を展開する「雪どけ派」といわれる知的言論人を生み出してもいたのでした。エフトゥシェンコは、そうした言論人の急先鋒でした。 ショスタコーヴィチが、いつこの詩を自らの題材に選んだのかは明らかではありませんが、1955年にバービィ・ヤールを実際に訪れたことがあったという彼が、この若い詩人の作品に心を惹かれなかったはずもなく、詩が発表されて約半年後の1962年3月には、後に第1楽章となる『バービイ・ヤール』が完成、当初は合唱付きの交響詩として完結する考えだったようですが、持病の右手神経症治療で入院中(同年7月21日まで)に、エフトゥシェンコの詩集「両手をふりあげ」から素材を探し、最終的に全五楽章の大作へと発展したのでした。異なる素材を選び出し、有機的に関連付けていったショスタコーヴィチの文学的センスは、この頃にはショスタコーヴィチと親しくなっていたエフトゥシェンコ本人をも驚嘆させたそうですが、さらに驚かされるのは、第1楽章以外の四章がすべて入院中に完成されたことで、記録によると、最終楽章「出世」が完成したのは退院の前日、7月20日とされています。 この年の秋、ショスタコーヴィチは友人数人を自宅に招き、その13番目の交響曲を披露しています。持病のため以前のようには達者とはいかなかったようですが、ショスタコーヴィチは声楽の主要な旋律を歌いながら全5楽章をピアノ演奏、それぞれの楽章の前にはエフトゥシェンコが詩を朗読したそうです。限られた招待客には、作曲家仲間のハチャトゥリアンとヴァインベルク、歌手のガリーナ・ヴィシネフスカヤ、そして、この作品の初演を担うこととなるキリル・コンドラシンの姿があったとされています。 初演は1962年の12月18日、コンドラシン指揮Powered by HMV