クマのプーさんの哲学
Williams John Tyerman / 小田島 雄志 / 小田島 則子
定価: ¥ 780+税
#Williams_John_Tyerman #小田島雄志 #小田島_則子 #本 #哲学
この本は知らないうちに、プーさん特有のゆる〰いノリで、気がつくと哲学しています!?
例えば、ハイデガーの『言語の本質』の一節と『くまのプーさん』の一節を対応させて、みごとに同じことを言っていることを証明してみせます。次のように、
プーは「詩や歌ってのは、こっちがつかむものじゃなくて、あっちからこっちをつかむものなんだ」と言う。ハイデガーはこれを一般論にして、「言語は語る」と書いた。
もっと入り組んだ例も検討してみよう。
あさごはんのとき……プーはとつぜんあたらしい歌を思いつきました。それはこういうでだしです。
ホーーとうたえ、くまのために
ここまでうたうと、プーは頭をかきかき考えこんでしまいました。「歌のでだしとしてはすごくいいんだけど、次はどうしよう?」
プーは2、3回「ホー」とうたってみましたが、どうにもなりませんでした。プーは考えました。「クマのためになら、『ハイ』ってうたったほうがいいかな」
そこでそううたってみました……でもだめでした。
ハイデガーが『言語の本質』の中で書いた注釈はこうなっている。
しかし、もし、いままで言われたことのないものを言語に入れることが問題だとすると、すべてのものは言語が適当なことばを与えるか与えないかに依存する。詩人の場合はそういうことだ。
「ハイ」をかわりにおいたのでは満足のいく結果はえられなかった。
「じゃあ、こうしよう」、とプーは言いました。「この最初の1行を2回つづけてうたうんだ。すごく速くうたったら、自分で考えつくまえに、3行目と4行目がしぜんに出てくるかもしれない」
……、ハイデガーの引用文にも続きがある。「実際、詩人は……自分なりの、つまり、詩的方法で……言語の中に言語にかんする自分の経験をもちこまざるをえない状況になることもある」。さらに、おどろくことに、ハイデガーはこうことばを続けている。「歌は、歌になってからうたわれるのではない。そうではなくて、うたっているうちに、歌は歌になるのだ」
……。
美品。