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【著者紹介】
蘇軾 景祐3年12月19日〈1036年1月8日〉 - 建中靖国元年7月28日〈1101年8月24日〉[1])は、中国北宋の政治家、文豪、書家、画家。政治家としての活躍の他、宋代随一の文豪として多分野で業績を残した。文学以外では、書家、画家として優れ、音楽にも通じた。元豊8年(1085年)に神宗が死去し、哲宗が即位すると、幼い哲宗に代わって宣仁太后高氏の垂簾朝政が8年間続く。彼女の後押しも有って旧法党の官僚は要職に就き、元豊9年(1086年)に司馬光は宰相となる。蘇軾も同時期に名誉を回復され50歳で中央の官界に復帰し、中書舎人・翰林学士などを経て、礼部尚書まで昇進した。新法を全て廃止する事に躍起になる宰相・司馬光に対して、新法でも募役法のように理に適った法律は存続させるべきであると主張して司馬光と激しく論争し、次第に旧法派の内部の分裂が見られるようになる。
司馬光の死後は対立が先鋭化し、蘇軾・蘇轍兄弟を中心にした蜀党(四川派)と、程頤・程顥兄弟の洛党(洛陽派)、朔党(北方派)の三つの派閥が党争を起こす事になる。蘇軾は保守派に対し公平な批判的意見を述べたことにより、攻撃の的とされ、地方と朝廷を転々として逃れていた。宣仁太后高氏の寵愛があっても確固たる地位につかなかったのはこのことが原因であった。
紹聖元年(1094年)に再び新法派が力を持つと蘇軾は再び左遷され(この時59歳)、恵州に流され、さらに62歳の時には海南島にまで追放された[10]。二度目の追放である。黄州時よりもより高い役職に就いていたために、左遷時の罰も重かった。それでも飽き足りなかった朝廷側は、場所をさらに恵州から昌化軍(現在の海南島西部)に移した。熱帯環境の海南島は先住民族の黎族の居住地であり、漢民族に沿って異郷ともいえる環境で侘しい生活を送る。
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