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網野菊 一期一会、ゆれる葦 4冊

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私小説の名作!東京赤坂を描く。 - 著者: 網野菊 - タイトル: 時々の花 - タイトル: ゆれる葦 - タイトル: 一期一会 - タイトル: 石路の花(広津桃子) wikiより 東京市麻布区谷町(現・六本木1、2丁目)で馬具製造業の父・亀吉(1875-)とふじのの長女として生まれた[1][2][3]。 千代田高女を経て、1916年に日本女子大学英文科に入学し、同年実母への複雑な心境を描いた「二月」を執筆し、1920年に同作を含む『秋』を国文堂書店より自費出版して作家デビュー[7][1][8]。同級生に宮本百合子、児童文学作家の丹野てい子(野町禎子)がおり、丹野とは生涯親交した。大学を卒業したのち、母校で教師を務める。1922年から二年あまり早稲田大学露文科の聴講生となる。 志賀直哉を一期の思いで訪ねたところ、持参した『光子』を志賀に認められて弟子となり、志賀の斡旋で1925年に『文藝春秋』に『家』を、翌26年『中央公論』2月に『光子』を発表[9]。1926年から二年間志賀の転居先である奈良に住んだ[7]。新たな母の輿入れが引き金となり、1929年に発作的に服毒自殺を図り、翌年には密かに心を寄せていた画家の中村研一の結婚に打撃を受ける[10]。 作品を読んで感激したという京都帝国大学哲学科卒の教師相原信作から手紙で求婚されてすぐ承諾し、お互い顔を知らないまま1930年に結婚[11]。満洲奉天の満州医科大学予科教室にドイツ語教師として勤務していた相原とともに奉天で暮らす[12]。しばらく文筆から遠ざかるが、帰国後の1938年に離婚し[13]、1940年に『汽車の中で』で復帰。失敗した結婚をもとに『肥る』『風呂敷』『妻たち』『おかしな結婚』などを執筆[14]。 1962年「さくらの花」で芸術選奨文部大臣賞および女流文学賞。1968年、『一期一会』で読売文学賞。同年、日本芸術院賞[16]、1969年芸術院会員。1971年に護国寺裏の直居アパートに転居、同所には広津和郎の仕事場があり、広津の娘で、網野の没後のその生涯を著した広津桃子と親しくなる。 1978年5月15日、78歳で死去[17]。墓所は青山霊園。網野菊旧居跡として千代田区四番町図書館(四番町1番地)に記念プレートが設置されている[18]。 ご覧いただきありがとうございます。
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