アパグループ(英: APA Group)は、ビジネスホテルチェーンアパホテルの開発・運営、マンションの開発・分譲を中心とした不動産デベロッパー。代表の元谷外志雄一族が株式を保有するアパ株式会社、アパグループ株式会社、アパホールディングス株式会社、アパホテル株式会社などの同族会社で企業集団を形成しているが、資本構成の細部は非公表である。本社は東京都港区赤坂。創業以来赤字ゼロを続ける[5]。
なお、不動産賃貸仲介会社のApaman Network及びその親会社のAPAMANとは名称こそ類似するが、何れも全く資本関係の無い別会社である。
概要
1971年4月1日に小松信用金庫を退職した元谷外志雄が、同金庫の出資および石川県小松市内の電話交換室跡を間借りして「信金開発株式会社」を設立。同年5月10日から住宅ローンをセットにした戸建注文住宅と建売住宅・分譲地の企画販売を開始する。
信用金庫の関連会社を連想させて顧客の信頼を掴む戦略であったが、設立数年後に大蔵省から信用金庫の関連会社ではないとの指導で「信開産業株式会社」へ改称。元谷外志雄が小松信用金庫の出資分を取得して同族企業となり、「信開(SHINKAI)」の商号で事業展開する。
元々は注文住宅から始まり、含み資産重視の経営を志向[5]。1978年より戸建志向の強い北陸地方で賃貸・分譲マンションの企画販売に進出。元谷外志雄は住宅事業の利益を償却で圧縮できることを目論み、1980年11月30日に信開ホテル株式会社を設立し、1984年12月12日に金沢市に1号店を開業しホテル事業に進出[1]。同年にはマンション事業で東京へ進出し、一時期アーク森ビルに本部を構えていたが、ブラックマンデーの不況を受けて本部を石川県金沢市へ戻す。1986年5月20日に不動産仲介店として「アパートマンションのアパ賃貸館」を石川県に出店。バブル期は北陸地方初のタワーマンションである「信開アーバンシティ」など、住宅開発が中心であった。
バブル崩壊後の1997年7月7日に「信開ホテル<東京板橋>」開業によりホテル事業も東京に進出[1]。「アパホテル<大阪天満>」開業後の1997年11月25日に信開産業からアパ株式会社に商号変更[注釈 1][1] 。商号のアパ (APA) は、元谷外志雄がランドーアソシエイツにブランディングを依頼したもので、「Always Pleasant Amenity」の頭文字から採られた頭字語である[6]。信開アーバンシティなど、アパ改称以前よりランドーアソシエイツが1989年に手掛けた日本航空の3代目ロゴと同じく"Λ"のような形になっている。
創業以来、オイルショック、バブル崩壊など社会的危機が続いた中、黒字経営を続けたが、その秘訣について、元谷外志雄と元谷芙美子は、「不動産は自己所有でそれを運用し儲けているのであって、売買で儲けているわけではない。ホテルも例えばヒルトン、シェラトン、リッツなどは看板だけで自己所有ではないが、うちはみな自己所有だ。総資産は1兆3000億円だ。健全なる事業資金としての銀行借入れは3000億円。高いレバレッジをかけた運用はしない。博打はやらない。銀行は使ってくれ使ってくれと言ってくるので、じゃあ、コンペで決めましょうとメガバンク同士を「1回きりですよ!」と言って競わせている。うちは利益率が高い。だから利益が8割減ってもまだ残る。利益率の低い商売をするからちょっとのことでダメになる」とNewsPicksのHORIE ONEで発言した[7][5]。
創業31年目となる2002年5月10日に、アパグループの本社機能を石川県金沢市の事務所兼賃貸マンションから買収した東京・赤坂見附のオフィスビルへ移転。
アパグループは元谷外志雄の強いリーダーシップで経営される同族企業で、長らく業績の対外開示に消極的であったが、2015年11月期決算よりアパグループホームページの企業情報に連結の決算公告を掲載するようになった。但し、キャッシュフロー計算書など財務諸表の一部は非開示である。
また、アパホテルやマンションの建築計画表示の看板で、事業主にアパ株式会社ではなく、アパマンション、アパホーム、アパホテル、アパグループ、特定目的会社などの社名のみ表記される物件もあり、これら会社間の資本関係も非公開会社のため明らかにされていない。
従来はグループ全体が会社という概念の意味で、プレスリリースなどでは個別の会社名ではなく「アパグループ」と表記していたが[8]、2012年5月10日をもってアパ都市開発株式会社をアパグループ株式会社に社名変更し、元谷外志雄の長男の元谷一志が代表取締役に就任。グループの運営を統括する会社として位置づけることとなった[2]。
マンション事業は、グループ代表である元谷外志雄が代表を務め[9]、ホテル事業は妻の元谷芙美子が社長を務めるアパホテル株式会社が行っている[10][11]。
なお2022年4月1日付でアパグループ株式会社の体制変更が発表され、元谷外志雄が同社会長として一歩引いた形となり、長男の元谷一志が同社社長兼CEO、次男の元谷拓が同社専務として経営実務を担うことになった。元谷芙美子は引き続きアパホテル株式会社の社長を務める[12]。
2023年12月、同業の「大江戸温泉物語」チェーンの資産管理会社である「大江戸温泉アセットマネジメント」を買収することを発表し、同チェーンを事実上傘下に収めた[13]。チェーンの統合などは行わない方針だが、「大江戸温泉」傘下ホテルの運営をアパグループが受託するような形態などはあり得るとしている。
アパホテル
1980年11月30日設立[1]。1984年12月12日に金沢市に1号店「金沢ファーストホテル(現:アパホテル <金沢片町>)」を開業[1]。以後、「信開ホテル」名称で石川県・富山県で出店を続け、1994年4月1日に信開ホテル社長に元谷芙美子が就任[1]。常に帽子を被った正装で「私が社長です」のキャッチコピーとともに積極的に広告やバラエティー番組などに登場[14]。会社の広告塔であるとしている。日本全国に元谷芙美子の顔をデザインした看板を300ヶ所以上に掲げる[5]。
1997年7月7日に「信開ホテル <東京板橋>」を新築開業し、関東へ進出[1]。板橋駅・大垣駅などJR線路沿いの物件は国鉄清算事業団が保有していた用地を買収したものである。
2005年には西武鉄道から幕張プリンスホテルの土地建物を132億円で買収し、「アパホテル&リゾート〈東京ベイ幕張〉」とする。
東京23区内の出店は板橋や赤坂を除き、2000年代まで既存のビジネスホテルを買収するなど数カ所に留まっていたが、リーマン・ショック以降、事業収益や銀行融資を元手に建設用地の取得を加速し[15]、2010年より「SUMIT-5」と称するドミナント戦略を掲げ、東京都心部と政令指定都市を中心に効率性を重視した「新都市型アパホテル」の新築開業を続けている。2011年9月以降は地場資本のホテル運営会社との提携や買収によるフランチャイズも行い、2016年5月時点で39店舗目となっている[16][17]。
2015年11月13日、日本国外におけるホテル第1号として、アメリカ・ニュージャージー州のニューアーク・リバティー国際空港付近にアパホテル ウッドブリッジ(APA Hotel Woodbridge)がオープンした。このホテルは旧ヒルトン ウッドブリッジ(Hilton Woodbridge)で、同州で不動産投資を行っている台湾企業のフレンドウェル・グループ(友井集団)とフランチャイズ契約を結んで運営している[18]。 2016年9月6日には岡部 (金属加工)の子会社であったカナダのコーストホテル(英語版)を取得し、北米エリアでは40ホテル、5,028室を有するホテルチェーンとなった[19]。
アパホテルとしては島根県と高知県を除く45都道府県に展開しており、資本提携しているホテルは島根、高知を含めた全国に存在している。[20]。
ホテル運営客室数は11万9000室以上であり、2024年(令和6年)時点において日本で業界1位(2位は東横イン)である[21][22]。