アルトゥール・マルティン・フレプス(Artur Martin Phleps)は武装親衛隊の将軍です。当時オーストリア=ハンガリー帝国領だったトランシルバニア地方生まれのため、第一次大戦の敗戦でオーストリア=ハンガリー帝国は分裂し、トランシルバニア地方はルーマニア王国領となったため、フレプスはルーマニア軍に入隊し、少将まで昇進しています。1941年に退役後、ドイツ国防軍に招かれ、武装親衛隊に移籍し、第5SS装甲師団「ヴィーキング」に属する連隊長となっています。1942年に入り、ルーマニア・ハンガリー・クロアチア・セルビアの民族ドイツ人から成る第7SS義勇山岳師団「プリンツ・オイゲン」が組織されるとその初代師団長に任命されています。1942年後半には「プリンツ・オイゲン」はバルカン半島のパルチザン掃討作戦に駆り出され、パルチザン以外の民間人をも含めた大量虐殺に関与しています。フレプスは1944年に行方不明となり、最期は不明ですがソ連に捕まって殺害されたとみられ、公式には戦死として処理されています。