f20072603〇肉筆漫画 色彩手書き 開国六十年史図絵 No.41 労働者の自覚 池田永治 昭和2年 中央美術協会〇和本古書古文書
肉筆漫画 色彩手書き 開国六十年史図絵 No.41 労働者の自覚 池田永治 昭和2年 中央美術協会〇和本古書古文書
420x300mm
汚れが有ります
池田 永治(いけだ えいじ、1889年10月15日 - 1950年12月30日)は、日本の漫画家、洋画家、挿絵画家、俳画家。京都府出身。大正期から昭和20年代にかけて活躍した。
京都府出身。本名は池田永治。1928年以降は(妹繁子の死を悲しみ)池田永一治(読みはエイジのまま)と称した。
他の画名に永一路、牛、牛歩、田牛(たのもう)など、丑年うまれにちなむ。
1889年、京都市木屋町生まれ、大阪育ち。父直次郎の木版印刷業を継がずに上京して、太平洋美術学校を卒業、同校教授となる。
珊瑚会に加わり、太平洋画会を中心に活動し、1910年第4回文展褒状「牧場」から1946年日展入選「鳥渡る」まで、日展(帝展、文展)関係の褒状2回、
招待2回、無鑑査4回、入選16回に及び、風景画を得意とした。代表作「国土豊」(1942年新文展無鑑査)など4点が兵庫県立美術館に収められている。
岡本一平らと東京漫画会をおこして活動し、1931年、読売新聞社漫画部員となり、「読売サンデー漫画」を中心に政治風刺漫画、こども漫画、俳漫画に独自の筆を振るった。
代表作は「こども漫画ピチベ」。俳画は小川芋銭に師事し、1916年、1918年「現代俳画集」などで活動し、1941年理論書「新理念 俳画の技法」を著している。
また、田山花袋に認められ、1920年「山水処々」、1924年「東京震災記」など博文館の花袋著書11冊で挿絵・装幀を担当した。
戦争中も在京して創作・慰問の活動を続けたが、戦後は持病の糖尿病が進行し活動が低減した。1950年12月30日、療養先の富山県氷見郡阿尾村で死去。享年62歳。