《品切れ・稀少本》
ヴェネツィア・水の迷宮の夢
ヨシフ・ブロツキー/ 金関 寿夫
定価: ¥ 1600
ヨシフ・ブロツキーは、1940年旧ソ連現ペテルブルグ生まれの詩人。国内で迫害を受け、1972年アメリカへ亡命。1987年ノーベル文学賞受賞。1991年アメリカの桂冠詩人に選出され、同年フランスからレジョン・ドヌール章。
次のような書き出しで始まります。
“はるかに遠い昔のこと、1ドルは870リラで、ぼくは32歳だった。そのころ地球は、20億人ぶんだけ今よりは身軽だった。そしてあの12月の寒い晩に、たどり着いた駅舎のバーは人気が無く、がらんとしていた。ぼくはカウンターの前に立って、この都市(まち)で知っているたったひとりの女性を待っていた。彼女はずいぶん遅れていた。”
“ずっと以前、前世でぼくがロシア語に訳したイタリアの詩人ウンベルト・サーバの詩の最初の一行を思い出す。「荒涼たるアドリア海の深みで」……”
”最後にたどり着いたのはこの館の主人用寝室だった。巨大な、覆いのない、4本柱のベッドが、その部屋をほとんど占拠していた。…。…、天蓋の代わりに、天井からベッドに向かって降りてくるかに見える漆喰作りの小天使群が、奇怪なほどうじゃうじゃくっついていたからだ。そのくせ小天使たちはまったく天使らしくはなかった。ケルビムたちの顔は目もそむけたくなるほどグロテスクだった。下のほう、つまりベッドに向かって鋭い視線を送りながら、顔にはいやらしい、淫らなにやにや笑いを浮かべている。…。そして、そのまったくがらんとした部屋に、ポータブルテレビのセットがあるのにぼくは気付いた。ぼくはこの家の執事がこの部屋で、お気に入りとじゃれついているところを思い浮かべてみた。穏やかなシーツの海の中で身をくねらす裸の人々の孤島だ。それを埃をかぶった石膏像が、無言で見下ろしている。……”
ブロツキーはその季節はずれのヴェネツィアに、72年から17年の間、アメリカの大学の冬休みを利用してほんとんど毎年のように通ったと言う。本書は詩人のヴェネツィア滞在の印象を綴ったもので、一種の日記文学と言えるが、彫琢された文章の美しさで散文詩に近づいている。ヴェネツィアの水と光をモチーフに、多くの隠喩やアフォリズムを織り込んだ遁走曲(フーガ)のような作品である。
〈高橋源一郎「解説」より〉
美品